時代が下り江戸時代頃には、この歌は一般的な祝いの席で祝いの歌として庶民の間でも歌われるようになった。それに伴い「君」の解釈にも変化が生じ、例えば婚儀の席で歌われるときは「君」とは新郎のことを指し、すなわち新郎の長寿と所帯の安息を祝い祈願する歌として用いられた[要出典]。この時代の薩摩琵琶の歌のひとつである『蓬莱山』に現在知られるものと同じ歌詞のものが見られ、よって現在の「君が代」は、明治期に薩摩人がここから採ったものとする説が有力である[3][4](次節も参照)。
因みに、文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集 初編』(明治21年(1881年)発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、2番も存在する。作曲は『小学唱歌集 初編』には「英国古代の大家ウェブの古歌」と記されているが、詳細は不明[4][8]。
君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで うごきなく 常盤かきはに かぎりもあらじ
君が代は 千尋の底の さざれ石の 鵜のゐる磯と あらはるゝまで かぎりなき 御世の栄を ほぎたてまつる
[4][9]
後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している
明治2年(1869年)に設立された薩摩藩軍楽隊の隊員に対し、イギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を当時薩摩藩歩兵隊長である大山弥助(後の大山巌、日本陸軍元帥)が受け、大山の愛唱歌より歌詞が採用された[3][8](前節も参照)。当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている[要出典]。
ただし、この話には異論がある。佐佐木信綱が記した『竹柏漫筆』によると明治天皇が関西へ行幸する際、フランス軍から天皇行幸に際して演奏すべき日本の国歌を教えてほしいという申し出が日本海軍へあった。そのため、当初、海軍兵学校へ出仕していた蘭学者である近藤真琴へ歌詞を書かせたが、海軍内で異論があり、海軍海補であった川村純義が郷里で祝言歌として馴染みのあった歌詞を採用したというものである。ただし、この説は明治当初に海軍が陸軍に対抗して自ら国歌の必要性を理解した上で発起したということを知らしめるために利用されていた節があり、現在の国歌研究においては「大山発案説」が事実であると見られている[要出典]。
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当初フェントンによって作曲がなされたが、洋風の曲であり日本人に馴染みにくかったため普及せず、明治9年に海軍音楽長である中村祐庸が「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を提出。翌年に西南戦争が起き、その間にフェントンが任期を終え帰国。その後明治13年(1880年)に宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律を一等伶人の林廣守が曲に起こし、それを前年に来日したドイツ人の音楽家であり海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが西洋風和声を付けた[3][4][8]。
同年10月25日に試演した翌26日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施工され、国歌としての「君が代」が改訂。11月3日の天長節にて初めて公に披露された
その後の明治26年8月12日には文部省が「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示[4][9]。また大正3年に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている[4]。以来、『君が代』は事実上の国歌として用いられてきた。
明治36年(1903年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が代』は一等を受賞した