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2009年06月 アーカイブ

2009年06月06日

楽焼(らくやき)は、一般的に電動轆轤

楽焼(らくやき)は、一般的に電動轆轤や足で蹴って回す蹴轆轤(けろくろ)を使用せず手とへらだけで成形する「手捏ね」(てづくね)と呼ばれる方法で成形した後焼成した軟質施釉陶器。狭義には樂家の歴代当主が作製した作品を示し、楽茶碗などとも呼ばれる。広義には同様の手法を用いて作製した陶磁器全体を指す。これらには樂家の手法を得た金沢の大樋焼や京都の玉水焼なども含まれる。
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千利休らの嗜好を反映した、歪んで厚みのある形状が特徴である。 茶碗や花入、水指、香炉など茶道具として使用される。

天正年間(16世紀後半)、瓦職人だった長次郎が千利休の指導により聚楽第を建造する際に使用された土を使って焼いた「聚楽焼」(じゅらくやき)が始まりとされる。 二代目・常慶の父、田中宗慶が豊臣秀吉より聚楽第からとった樂の印章を賜り、これを用いるとともに家号にしたことから楽焼となった、との説が広く知られる。 正統な楽家の楽焼を本窯、傍流の楽焼を脇窯という。

初期の製法としては、素焼き後に加茂川黒石からつくられた鉄釉をかけて陰干しし、乾いたらまた釉薬をかけるといったことを十数回繰り返してから1000℃程度で焼成する。焼成中に釉薬が溶けたところを見計らって窯から引き出し急冷することで、黒く変色する。これは美濃焼と共通する手法である。 天正9年(1581年)?同14年(1586年)頃に長次郎によって黒楽茶碗が焼かれたのが始まりである。

赤土を素焼きし、透明の釉薬をかけて800℃程度で焼成する。樂家と関わりの深い本阿弥光悦や、樂道入の作品などが有名である。

2009年06月10日

国歌になるまでの君が代

時代が下り江戸時代頃には、この歌は一般的な祝いの席で祝いの歌として庶民の間でも歌われるようになった。それに伴い「君」の解釈にも変化が生じ、例えば婚儀の席で歌われるときは「君」とは新郎のことを指し、すなわち新郎の長寿と所帯の安息を祝い祈願する歌として用いられた[要出典]。この時代の薩摩琵琶の歌のひとつである『蓬莱山』に現在知られるものと同じ歌詞のものが見られ、よって現在の「君が代」は、明治期に薩摩人がここから採ったものとする説が有力である[3][4](次節も参照)。

因みに、文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集 初編』(明治21年(1881年)発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、2番も存在する。作曲は『小学唱歌集 初編』には「英国古代の大家ウェブの古歌」と記されているが、詳細は不明[4][8]。

君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで うごきなく 常盤かきはに かぎりもあらじ
君が代は 千尋の底の さざれ石の 鵜のゐる磯と あらはるゝまで かぎりなき 御世の栄を ほぎたてまつる
[4][9]

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している

明治2年(1869年)に設立された薩摩藩軍楽隊の隊員に対し、イギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を当時薩摩藩歩兵隊長である大山弥助(後の大山巌、日本陸軍元帥)が受け、大山の愛唱歌より歌詞が採用された[3][8](前節も参照)。当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている[要出典]。

ただし、この話には異論がある。佐佐木信綱が記した『竹柏漫筆』によると明治天皇が関西へ行幸する際、フランス軍から天皇行幸に際して演奏すべき日本の国歌を教えてほしいという申し出が日本海軍へあった。そのため、当初、海軍兵学校へ出仕していた蘭学者である近藤真琴へ歌詞を書かせたが、海軍内で異論があり、海軍海補であった川村純義が郷里で祝言歌として馴染みのあった歌詞を採用したというものである。ただし、この説は明治当初に海軍が陸軍に対抗して自ら国歌の必要性を理解した上で発起したということを知らしめるために利用されていた節があり、現在の国歌研究においては「大山発案説」が事実であると見られている[要出典]。
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当初フェントンによって作曲がなされたが、洋風の曲であり日本人に馴染みにくかったため普及せず、明治9年に海軍音楽長である中村祐庸が「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を提出。翌年に西南戦争が起き、その間にフェントンが任期を終え帰国。その後明治13年(1880年)に宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律を一等伶人の林廣守が曲に起こし、それを前年に来日したドイツ人の音楽家であり海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが西洋風和声を付けた[3][4][8]。

同年10月25日に試演した翌26日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施工され、国歌としての「君が代」が改訂。11月3日の天長節にて初めて公に披露された

その後の明治26年8月12日には文部省が「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示[4][9]。また大正3年に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている[4]。以来、『君が代』は事実上の国歌として用いられてきた。

明治36年(1903年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が代』は一等を受賞した

2009年06月26日

アジア開発銀行

アジア開発銀行(?かいはつぎんこう、ADB、Asian Development Bank)は、アジア・太平洋における経済成長及び経済協力を助長し、開発途上加盟国の経済発展に貢献することを目的に設立された国際開発金融機関。本部はマニラ。ESCAP(アジア太平洋経済社会委員会)の発案により、1966年に発足した。現在67ヶ国/地域で構成される。最大の出資国は日本と米国(ともに出資比率15.7%を占める)である。


本部をマニラに据え、世界26ヶ所に事務所を設置している(アジア地域19ヶ所に駐在員事務所、太平洋地域3ヶ所に準地域事務所の他、フランクフルトに欧州代表事務所、東京に駐日代表事務所、ワシントンDCに北米代表事務所、東チモールに特別リエゾン事務所)。
2007 年末時点におけるADB の職員数は2,443 名であり、出身国は55 カ国。このうち経営幹部は5 名、専門職員は847 名(上位10カ国は、日本:118名、米国:103名、印:58名、中国:50名、豪:50名、加:46名、独:37名、韓:34名、インドネシア:33名、英:32名)、一般職員は1,591 名。
歴代総裁はすべて日本人が就任している。

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最高政策決定機関は総務会(Board of Governors)で、各加盟国1人の総務で構成される。日本からの総務として財務大臣が任命される。総裁は総務会で選出される。また、融資の承認等日常業務の意志決定がなされる理事会(Board of Directors)は、マニラ駐在の12人の理事(域内国から8名、域外国4名)で構成される。理事は隔年選出される。日本のADB 総務は谷垣禎一財務大臣、日本のADB 理事は大村雅基(元財務省近畿財務局長)。

渡辺武 1966年11月 - 1972年11月
井上四郎 1972年11月 - 1976年11月
吉田太郎一 1976年11月 - 1981年11月
藤岡眞佐夫 1981年11月 - 1989年11月
垂水公正 1989年11月 - 1993年11月
佐藤光夫 1993年11月 - 1999年1月
千野忠男 1999年1月 - 2005年2月
黒田東彦 2005年2月 -

世界金融危機

世界金融危機(せかいきんゆうきき)は、サブプライムローン問題を背景に、2007年のアメリカの住宅バブル崩壊に端を発した国際的な金融危機のことである。

2008年9月29日にアメリカ合衆国下院が緊急経済安定化法案を一旦否決したのを機に、ニューヨーク証券取引市場のダウ平均株価は史上最大の777ドルの暴落を記録した[1]。金融危機はヨーロッパを中心に各国に連鎖的に広がり、さらに10月6日から10日まではまさに暗黒の一週間[2]とも呼べる株価の暴落が発生し、世界規模の恐慌への発展が危惧されている。日本でも日経平均株価が暴落したほか、生命保険会社の大和生命保険が破綻した。

ノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマンは、生産、金融、消費の世界的な縮小状況について「これは実に第二次世界恐慌(a Second Great Depression)の始まりのように思われる」と評した。[3]また、国際通貨基金(IMF)のストロスカーン専務理事は非公式のコメントとして「(日本を含む先進各国は)既に恐慌(depression)の状態にある」と述べた。[4]
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2001年9月11日にアメリカ合衆国で発生した同時多発テロで国内は混乱し、ニューヨーク証券取引市場は太平洋戦争開戦以来の市場閉鎖に追い込まれた。破壊された世界貿易センタービルでは多くの金融機関が入居しており、その被害も甚大だったことから、当時のFRB議長アラン・グリーンスパンは金融秩序維持の為に、これまでの政策を一転させて、全面的な金融緩和政策に転じ、米国国内は超低金利下となった。当時、日本発のデフレーションが世界的に伝播する懸念もあり、その政策は正当視されていたものの、その後の米国国内土地バブル景気の温床となった。

2003年3月19日に始まったイラク戦争によって、これまで非公式に輸出されていた世界第2位の埋蔵量を誇ったイラクの原油輸出が不可能となり、OPEC諸国の価格カルテル機能が復活するようになった。加えて、テロ攻撃回避から石油精製施設への設備投資が世界的に滞っていたこともあり、この結果、原油価格の上昇が加速された。産油国は余剰利益の運用をこれまでの金融市場での運用から分散させて商品市場への投資にまで拡大した。これによって、商品市況は上昇に向かい、資源価格が上昇したと共に、豪ドルやカナダドルに代表される資源国通貨も全面高となった。加えて、OPEC非加盟国であったロシアは原油価格の高騰で採算に難があった北極油田の採掘が可能となり、サウジアラビアを抜いて世界一の産油国となり、原油の輸出により、これまでの債務国から債権国に転じた。

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