陸軍から独立した自由裁量で運用
1935年にヒトラーは、陸軍から独立した自由裁量で運用できる武装組織である親衛隊特務部隊の編成を陸軍に認めさせる。1936年に退役陸軍中将パウル・ハウサーが親衛隊特務部隊総監 (Inspekteur der SS-Verfügungstruppen) に任じられ、彼は指揮官不足を解消するために親衛隊独自の士官学校 (Junkerschule Bad Tölz) を設ける。
また、ナチ党政権への移行の政治的不安定な時期に対処できるように主要都市に設けられた党の治安部隊(Politische Bereitschaften) を整理、親衛隊特務部隊としてミュンヘンに ドイチュラント連隊 (SS-Standarte Deutschland)、ハンブルクにゲルマニア連隊 (SS-Standarte Germania) を編成した。1938年には併合されたオーストリアのウィーンからデァ・フューラー連隊 (SS-Standarte Der Führer) が加わる。
大戦とともにフランス国境防衛の予備軍として配置されたデァ・フューラー連隊を除く、親衛隊特務部隊はポーランド戦に出陣した。ポーランド戦後の1939年10月にこれら三個の親衛隊特務部隊が統合され、SS特務師団が編成され、フランス戦に活躍した。この師団から後にゲルマニア連隊が引き抜かれ、これを核に新しくヴィーキング師団が編制された。このようにSS特務師団は武装親衛隊の幹となって、次々と枝葉を広げたと自負している (Stammdivision der Waffen-SS)。自身も最終的には第2SS装甲師団 ダス・ライヒにまで発展した。
テオドール・アイケ
政権獲得後に反体制派を収容する強制収容所が数多く建てられ、テオドール・アイケは、1933年に収容所監視するSS髑髏部隊(SS-Totenkopf-verbände, 略号:SS-TV)を立ち上げる(Inspekteur der Konzentrationslager und Leiter der SS-Totenkopfverbände, 強制収容所総監兼SS髑髏部隊指揮官)。彼は、新天地を求め、SS髑髏部隊出身者から志願者を募り、SS髑髏師団を指揮し、フランス戦を皮切りに各地を転戦する。
彼は東部戦線のデミヤンスク防衛線で凄まじいまでの活躍を見せる。友軍から切り離され補給は空輸のみ、と言う状況にもかかわらずアイケと髑髏師団は僅か1個師団の戦力で度重なるソ連軍の攻撃を跳ね返してデミヤンスクを見事守りきる事に成功する。アイケは柏葉騎士鉄十字章を与えられ、デミヤンスク防衛に参加した将兵全員にデミヤンスク防衛章を与えられる。だが1943年2月にアイケは行方不明になった部隊を捜索中に乗機が撃墜され、戦死する。
警察師団
親衛隊員ではない一般警察官の秩序警察からも志願者が募られ、1939年9月18日警察師団 (Polizei-Division) が編成され、翌年のフランス戦に出撃した。警察師団の武装親衛隊への正式な編入は少し遅れて1942年のことである。
LSSAH、SS髑髏師団、SS特務師団はフランス戦の試練に耐えて、1940年12月に「武装親衛隊」という統一名称が与えられた。
志願兵制
武装親衛隊は兵員の充足については苦労があった。義務兵役年齢に達した青年男子は居住する軍管区に登録され、一定の比率で陸、海、空の国防三軍に配分されるが、武装親衛隊には徴兵による補充はなく、志願制であったので、「満17歳になったら、武装親衛隊へ志願しよう !」のポスターで募集活動する必要があった。初期においては外見や血統、体力や政治的な信条で入隊の可否を決めており、出身階層や学歴は考慮されていなかった。このため戦前に入隊したSS士官候補生のうち、実に4割が小学校レベルの学校教育しか受けていない者たちであった。
武装親衛隊の制服は格好が良いと若者に評判で、また武装親衛隊の入隊期間が義務兵役年限に算入されるので、武装親衛隊に志願する若者が多くいた。ノーベル文学賞作家ギュンター・グラスは1944年当時17歳で志願し第10SS装甲師団の戦車兵として本土防衛戦を戦ったと告白して世間の耳目を集めた。
志願兵制はしばしば陸軍の徴兵部門との軋轢を起こした。このため、親衛隊は血統基準などの条件を緩和し、問題を起こさないと見られる外国籍のドイツ人、ゲルマン系のオランダ人、デンマーク人、ベルギー人、ノルウェー人に始まり、非ゲルマン系のフランス人やスラブ人までも対象を拡大した。
90万人以上と言われる武装親衛隊の総兵力の60%は外国人部隊であった。しかし、ゲルマン民族の優越意識は師団の命名法にも反映されていた。ゲルマン系外国人部隊は xx.SS-Freiwilligen- xx -Division(第 xx SS 義勇 xx 師団)、フランス人、イタリア人、スラブ人部隊は、 xx.Waffen- xx -Division der SS (第 xx SS 武装 xx 師団)と区別されていた。
一部の部隊は、鍛え抜かれた精強な文字通りの「エリート部隊」であったが、規模が拡大するにつれ、そのエリート性を維持するのは困難となり、中には「親衛隊の面汚し」とも言える部隊(RONA旅団やディルレヴァンガー突撃旅団など)まで抱え込んでしまう。また、半強制的に編成された部隊や降伏した敵兵から募って編成された部隊では武器の供給すら満足に行われず、訓練の水準も士気も低いままで戦力としてはあまり役に立たなかった。
そのような状況であったにも関わらず「武装親衛隊神話」が実しやかに語り続けられるのは、旺盛な敢闘精神を示すべき政治的兵士として優先的に新兵器の供給を受けて戦った、精強な一握りの「エリート部隊」が超人的といっても過言ではない戦いぶりを示した故である。また師団長以上の将官の戦死者が36名(ほぼ1師団あたり1名)と、兵と共に前線にあった者が多かったことが伺える。
例えば第12SS装甲師団 ヒトラーユーゲントは下級兵士の大半が未成年で、しかもこれが初陣であるにもかかわらず、カナダ軍の猛攻からカーンの町を2ヵ月以上死守し、一気にノルマンディーから内陸に侵攻する予定だった連合軍は、その計画を大きく修正する事を余儀なくされている。しかし、その一連の戦いで同師団は戦死者約4000名、戦傷病者約8000名、初代師団長が戦死、二代目も捕虜になるという大損害を被っている。武装親衛隊における1個師団の兵員数が通常1万4000名から1万6000名であると言うことを考えると、これを構成する将兵のほとんどが死傷するという凄まじいものであった。
また、ベルリンの戦いで最後まで国会議事堂に立て篭もって戦った部隊はノルトラント師団やフランス人の義勇兵達だった。最後まで戦い抜いた理由の一部は彼らが勇敢だったからだけではなくここで降伏しても故国に送還されて反逆者として処刑されるという絶望感もあったのではないかと思われる。実際外国人義勇兵の多くは戦後祖国で冷たく扱われ、指導者の中には死刑になった者もいる。
有名な武装親衛隊隊員
クルト・マイヤー…パンツァー・マイヤーの異名で知られる戦車兵指揮官。第12SS装甲師団長。親衛隊准将。
ヨアヒム・パイパー…第1SS装甲師団隷下にあるパイパー戦闘団の指揮官。親衛隊大佐。
ミハエル・ヴィットマン…第1SS装甲師団所属(後にSS第101重戦車大隊へ異動)の戦車兵。親衛隊大尉。
エルンスト・バルクマン…第2SS装甲師団所属の戦車兵。親衛隊曹長。
エルンスト=ギュンター・シェンク…軍医。ヒトラーの内科主治医。親衛隊大佐。
アルトゥーレ・シルガイリス…ラトビア人義勇兵部隊指揮官。親衛隊上級大佐。
オットー・スコルツェニー…コマンド部隊の指揮官。ベニート・ムッソリーニ救出などで活躍。親衛隊大佐。
ルドルフ・バンゲルスキス…ドイツへ亡命した白系ロシア人。ラトビア人義勇兵部隊指揮官。親衛隊中将。
ヘルマン・フェーゲライン…エヴァ・ブラウンの妹の夫。第8SS騎兵師団長。親衛隊大将。
オスカール・ディルレヴァンガー…武装親衛隊の面汚しと謳われた囚人部隊ディルレヴァンガー旅団(後に第36SS武装擲弾兵師団として再編)の指揮官。親衛隊准将。
ギュンター・グラス…ノーベル賞受賞作家。第10SS装甲師団所属の戦車兵であったことを2006年に告白し、ドイツ国内やポーランドにて強い批判を受けた。
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