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マゾフシェ公コンラートは北方

1226年、時のマゾフシェ公コンラートは北方のバルト海沿岸に住むプルシ(プルーセン)人の来襲に悩まされたあげく、ドイツ騎士団にプルシへの十字軍遠征を許可した。ドイツ騎士団は神聖ローマ皇帝の勅書を得て北方に向かい、以後50年の間バルト海沿岸地方で活動し、キリスト教の洗礼を受けないプルシ人は皆殺しにした。ドイツ騎士団はローマ教皇からの勅許を得たと主張してこの地に定住した。さらにドイツから入植者を呼び寄せてこの地を開拓させた。
1241年にはモンゴルのバトゥの軍の一部がポーランド南部に来襲し、サンドミェシュやクラクフなど南部の諸都市を襲ってシロンスクに侵攻した。時のシロンスク公でクラクフ公も兼ねていたヘンリク2世はポーランド人とドイツ人から編成された軍を率いてレグニツァでモンゴル軍を迎え撃った(ポーランド名レグニツァの戦い、ドイツ名ワールシュタットの戦い)。装備・物量で劣っていたヨーロッパの軍は果敢に戦ったが敗北し、ヘンリク2世も戦死した。まもなくモンゴル軍はアジアへ引き返したが、それまでにクラクフ公領とシロンスク公領の南部はモンゴル軍に略奪され、逃げ遅れた住民は殺され、これらの地方はほぼ無人となり荒廃してしまっていた。以後はモンゴル軍に襲われた地方の復興がこの地域の諸侯の最優先課題となった。モンゴル軍のいる間は疎開していたポーランド人住民もやっと戻ってきたが、それでは人手が全く足りなかった。侯たちはドイツや西欧から開拓民を呼び寄せた。この地域における本格的な東方殖民の始まりである。彼らは特にシロンスクとその周辺に定住し、多くの街を作った。これらの街では従来のポーランドの法律でなく、それまでドイツ人が故郷で慣れ親しんでいたマグデブルク法という都市法が適用された。これは当時の領主たちが西方からの植民者に与えたインセンティブであった。農村などその他の地域ではポーランド人の伝統法が使われた。以後は特にシロンスク地方を中心としたポーランド西南部にドイツ系住民が増え、原住民のポーランド人と混住していく。

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2008年12月16日 12:35に投稿されたエントリーのページです。

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